罪悪感を植え付ける罪とペテンについて

ある種の価値の標榜は罪と繋がっている。あるいは、ある種ではなくすべてと言っていいかもしれない。

ある基準を定めてそれから外れる者に対して罪悪感を植え付けることにより、その者を弱らせ治めやすくするといった機能が、あらゆる権力構造には存在する。

ある態様なり行動なりが罪であると規定する存在が孕んでいる罪に関しては不問に付される。規定そのものに罪が潜んでいては矛盾が生じ納得させられないからである。

常識とされているもののなかにも、全くの虚偽であるものがある。
それらがまかり通っているのは、そのようにしておけば皆がなんとなく分かったような気になり問題が無いかのように思われるからである。

しかし、問題が無いかのように思われるだけであって、本当に無いわけではない。
たんに犠牲者を生み出して知らん顔をしているだけなのだ。

大掛かりなペテンというものには、人民はひれ伏す傾向がある。
フランスでは、惨めたらしい犯罪者が国民詩人にまで祭り上げられるということが起こった。爆発して全世界に愛が降り注ぎ、それに対してひとびとが賞賛を浴びせて復讐をしたのだが、これなどもペテンに対する降伏の好例と言える。

ひとがひとを裁くというのが最初から無根拠であり混乱のもとであり無理なことなのだ。
すべてが、とうの昔からのあらゆるものが、実のところはペテンであったとしたら。
それは誰も認めることはない。余計に秩序を乱すだけだからだ。

正当性はなにもない。なにもない。なにもないのだ。

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