生きる意味

お前の人生になにか意味があるのか、と問われて怒らない人はいないであろう。
何かしらの意味があると思いながら、自らの人生に物語を捉えつつ、誰でも日々を生きているからだ。

生きてきた軌跡に何ら意味がなく、支離滅裂な出来事の羅列に過ぎないものに感じられたとしたら、それは恐ろしいことであろう。実際、たいていのところ、自らの来し方や行く末について、あるいは現在について、何らかのストーリーを読み取っているものであり、すなわち意味をもったものとして自らの生をとらえているのである。

だが、こんな人生にいったい何の意味があるのだろう?などと自問してしまうときはやってくる。
人生のなかでのエアポケットというかある種の亀裂があって、そこにはまり込んでしまうとなかなか通常ルートに戻れなくなる。

生の本体、生の本源や本質はいったい何であるか。
それは苦しみである、と宗教では説かれる。

たとえば、二〜三日飲まず食わずで過ごしてみるとする。
そうすると、とてつもない空腹に襲われるであろう。何か飲みたい。何か食べたい。
ちょっとの間食べないだけで、大きな苦痛に見舞われることになる。

だから、とにかく生きていると何もしないでも勝手に苦しみの方へと引っ張られていくことになるのだ。そして、事態はどんどん悪化していく。苦痛はさらに酷いものになっていき、最悪の場合、死にいたる。

生の本質が苦であって、その先には何があるか。どんどん突き詰めていけば、結局のところ「死」に行き着いてしまう。

「真理」は「死」の側にあって、生きている者には到達することができない。
悟りを得るためには一回死ぬ必要があって、死という経験不可能なものに触れることによってのみ、真理に到達することが可能となる。

しかし、生きながらそれを達成することはできない。なぜなら、生きている限り「死」は経験できないものであり続けるからであり、それらは両立できないものだからである。

しかし、生きながら死んでおり、かつ、死につつ生きているという矛盾を乗り越えた場合にのみ、悟りを得ることはできる。それは常人には不可能なことであり、誰も達成することはなく、ただ死んでいくのみだ。

ただ死んでいくのみであるとするなら、お前の人生になにか意味があるのかと問われて、ただ力なく笑うことしかできないのではないだろうか。


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