突然ですが、平凡に生きたいですか?
そう聞かれたら、みなさんは戸惑いますか?
私はちょっと戸惑います。
若い頃「平凡な人生が一番だよ」と年長者に言われ、反発を覚えたものでした。
しかし、あるとき私よりも一回りほど年下の知り合いに同じ発言をしたことに
後から気づいたことがあります。
年をとると平凡な人生がいいのだという考えに変わるのでしょうか。
長く生きて社会や人生の現実を知り、諦めることも多くなる。
また、著名人の栄光からの転落や、ねたまれて顔に硫酸をかけられたり(美空ひばり)銃で撃たれたり(ジョン・レノン)といった事件を知り、平凡でない人生は想像を絶する苦労があるのかも、などと考えて「平凡が一番」に傾くというのもあります。
でも、これは「酸っぱいぶどう」みたいなもので、手に入らないものに理由をつけて「たいしたことないよ」とうそぶいて、溜飲を下げたり自分を慰めたりしているだけかもしれません。
ただ、平凡ってなんやねん?といえば、これはよくわからない。
昭和の時代であれば、20代か30代で結婚して、1~3人子供を育てて、
郊外にローンで家を建てて…..といった人生は「平凡」であったかもしれません。
しかし、現代を生きる私たちからすると、そのような人生は、とても「平凡」には
見えません。むしろかなりの成功者に思えます。
「平凡」や「普通」など、もはやかけらも存在しないのかもしれません。
メディアは「多様化」という言葉で対応してきましたが、現実の問題に対処することが
果たしてできているでしょうか。
「ダイバーシティ」というワードが世をめぐり、多様性が大切なんだというメッセージが多く見られるわりには、まぎれもなく「排除の論理」はしっかりと機能しています。
耳ざわりの良い言葉でだまそうとしているのでしょうか。
近代化が完了し、どんな生き方をしてもいいのだという「自由」「解放」が実現した
結果、人々はむしろ私たちを縛り懲らしめ強く命令を下す「父」を求めているかのよう
です。
自国第一主義や権威主義、セクト主義や囲い込みや独裁などの出現に、そうしたものの表れを見ることができるのではないでしょうか。
申し訳ありません、話が逸れてしまいました。
生きていくうえで気づくのは、大抵の人にとって、格別いいことも特段悪いことも
起きることはない、ということです。
そうした極端なことが起きないということには、本当は大きな価値があるのではないか、と思うのです。
なにか大きな不幸に見舞われるということも、それはとてもありふれたことだから、やはり極端なことではないのです。
平凡に生きたいと願うのは間違いかもしれませんが、すでに平凡さそれ自体は自分に備わっているから、べつにそれでなにも構わないんだと考えると、気が楽になります。
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